創世記15章

アブラハムへの報い

 

15:1−6 星のような子孫

 

15:1「恐れるな」

・アブラムは恐れと喪失感に見舞われていた。

・恐れ 4人の王が報復してくるかもしれない

・喪失感 ソドム王からの報酬を断った。

・これらは神に従って大きなことを成し遂げた後やってくる。

・こうしたときに必要なものは神からの語りかけだ。

・恐れに対して「恐れるな、わたしはあなたの盾である」

・喪失感に対して「あなたへの報いは非常に大きい」

 

15:2−3

・アブラムにとって報いは子を産むこと

・サラは不妊だった(11:30)

 

15:4

・原文では強い語調

・子どもを与えるという神の強い意志が現れている

 

15:5−6

・「子孫」の意味

⑴星のように増える子孫→民族

⑵単数形 ガラテヤ3:16

・アブラムは自分お子孫からキリスト(女の子孫)が現れることを信じた。

・アブラムは不可能なことを信じ、それが彼の義となった。

・私たちが神の義となる方法 Ⅱコリント5:21

 

15:7−21 カナン人の地

 

15:7

・アブラムへのもう一つの報いは「カナンの地」

 

15:8ー10

・神はアブラムに約束を確信させようとした。

・当時行われていた契約のスタイル「もし破棄したらこのようになります」

 

15:11−16

・アブラムが土地を所有するという約束は苦難を経てから

・「大いなる暗闇の恐怖」エジプトでの奴隷生活という暗黒時代

「アモリ人の咎」

・アモリ人は忌わしいことを行い神に裁かれた レビ記20:23

イスラエルは神の裁きの器として用いられた

・神の忍耐と憐れみ 400年の猶予期間をアモリ人に与えた

 

<善悪について早まった判断を避けるべき>

・マタイ13:28−30

・「麦も一緒に抜き取るかもしれないから毒麦は抜き取るのをやめよう」

・誰が救われるか否かは神に委ねるべき

・憐れみにより誤っても、裁きによって誤ってはいけない。

 

<悪と善が極まり中間地帯がなくなる時代が来る>

・神の寛容と忍耐深さを、悪が許容されていると勘違いする人がいる。

・主に自分を捧げて清く生きる人と悪を行う人のどちらかという状態

・はっきり悪が見えてきたところで「刈り取り」が行われる。

・信仰にグレーゾーンはあり得ない。

 

15:7

・「かまど」と「たいまつ」の明かりは主の光

・アブラムは通っていない。一方的な契約。

・神はアブラム側に条件をつけなかった。

 

<律法と新しい契約>

・神はイスラエルに律法を与えた。

・守れば祝福、破れば呪い→イスラエルは律法を破り、土地を失った。

・キリストが代わりに呪いを受けることで律法は成就した。

・クリスチャンもアブラムと同じように、一方的かつ無条件の契約の下にいる。

 

<新しい契約>

・アブラムはその後失敗しても神の祝福が変わらず注がれる。

・彼に関わった人は神の臨在を覚えた。

・クリスチャンになっても過ちは犯すものだが神の契約は変わらない。

・キリストは私たちの過去現在未来にわたる罪を背負われた。

・クリスチャンの責任はキリストを信じることだ。

 

15:18−21

・所有する境界線が与えられた。

・「エジプトの川」はナイル川でなく支流のもっと東のスエズ辺りかワジ

旧約聖書ではイスラエルがこの境界線まで土地を占有したとは書いていない。

・律法の呪いによりイスラエルは土地を失ってしまう。

・アブラムの約束は人の失敗により無効になることはない。

・マタイ24:31で主は離散したイスラエル約束の土地に戻ってくると言われた。

 

 

 

 

 

 

 

 

神は知恵を与えてくださる マタイ3章

イエスの家族はヘロデ王の手から逃れ、エジプトへ下って行く。彼らはヘロデ王が死ぬとイスラエルに戻ってくる。彼らは南の方で暮らすことを望んでいたのだが、その地域はヘロデ王に勝るとも劣らない残忍な王が支配する地域であった。そこで彼らは北の方で暮らし始めることになった。

 

ここで注目したいのがイエスの父ヨセフが夢でお告げを受けて行動を起こしていることである。占星術の学者たちが去った後、またヘロデ王が死んだ頃、そして、イスラエルに戻ったはいいが恐れている時、ヨセフは夢の中で次の行動を示されたのだ。ヨセフは常に賢い選択をし、幼子であった救い主の命は守られたのだが、その背後には神からの知恵があったのだ。

 

今日の箇所で教えられることは、神が私たちにも知恵を与えてくださるということだ。

 

重大な決断をする時、自分の経験や誰かの助言では役に立たないことがある。そのような時、ヨセフのように神に知恵を与えてもらえるとしたら、何とありがたいことだろう。箴言9:10には、『主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることは分別の初め。』とあり、神を畏れることが知恵の始まりであることが教えられている。ヨセフはマタイ1:9で正しい人であったとあります。言い換えると、ヨセフは神を畏れる人であった。これが彼の人生に知恵をもたらしたのだ。

 

知恵とはどんな困難な状況の中でも懸命な判断をする能力のことだ。

 

知恵を求めた人物で有名なのはソロモン王である。彼は父ダビデが打ち立てた王国の後継者として指名された。この頃はまだ政敵があり、国も結束しているとは言い難かった。ソロモンは父ダビデに倣い神を畏れ敬った。そんな彼に神が夢に現れて欲しいものを与えると言われた。ソロモンはこの時、国を治めるために知恵を求めたのだ。列王記上3:6-14.旧約p,531。神はこれを喜び、知恵に加えてすべてのものを与えると約束された。

 

列王記上3:16-22ソロモンの知恵が公けにされる事件が起こった。ふたりの女性がソロモンに相談を持ちかけた。ふたりにはそれぞれ生後間もない子どもがおり、同居していたのだが、就寝中ふたりのうちの一人が誤って子どもを圧死させてしまった。生き残った子どもがどちらの子どもか判別してほしいというのだ。両者ともに「これは自分の子ども」と主張し、判別は難しかった。

 

ソロモンが下した判決は剣で生き残った子どもを真っ二つにして、ふたりの母親に渡せというものだった。ひとりはその通りにして欲しいと願い、もうひとりはそうしないで子どもを相手に渡すことを願った。誰の目にも本当の母親は後者であることが明らかだった。こうしてソロモンはすべてのイスラエルの民にその知恵を示すことになり、優れた王として名声が国中に鳴り響くことになった。

 

神の知恵は例外なく神を畏れる人に約束されている。だからヤコブの手紙1章5節に知恵を求めるよう勧められている。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、誰にでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば与えられます。」

 

ここに誰にでも与えられるとある。ヨセフのように田舎の大工であっても、ソロモンのような王であっても求める人には身分に関係なく知恵は与えられる。

また惜しみなくとある。神の知恵は無尽蔵であり、神には知恵が満ち溢れているのだ。この神に知恵を求めないのは何と勿体無いことか。

さらに咎めることなくとある。どんな仔細なことについても神は知恵を与えてくださるのだ。

 

たとえ

 

ただヤコブは知恵を求めるに際して注意するようにとも言っている。同1章6〜8節「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」

 

知恵を求めるにときに疑ってはいけないのだ。なぜ疑うか。神のなさることが常に最善であると信じられないからだ。ヤコブはこの心の状態を「心が定まらず」と言っている。新改訳ではここを「二心のある人」と訳している。つまり、疑う人の心は神の命令とこの世の常識的にとの間で揺れ動いているということだ。そしてヤコブは「そういう人は生き方全体に安定を欠く人」だとも言っている。

 

イエスの父ヨセフがもしこのような人であったらどうだったか想像してみたい。神が夢でエジプトへ逃れよという。しかし、ベツレヘムからエジプトへの最短距離は、ガザを通って地中海沿いの道を西へ行くコースです。直線距離で410km以上、東京駅から神戸まで至る距離に匹敵。常識的に考えて妻とまだ2歳に満たない子どもを連れて徒歩で長旅をすることは無謀だ。

 

ヨセフは気づいていなかったがこの時、予断を許さない状況だった。おそらく、もし彼がどうしようかと迷っていたならば、ヘロデ王が派遣した兵士たちがベツレヘムに到着し、他の子どもたちとともに幼子イエスも殺害されてしまっていたに違いない。

 

しかし、ヨセフは夢から覚めると、まだ夜中なのに妻を起こし、幼子イエスを連れてエジプトへと下って行ったのだ。2:14  ヨセフはいささかも神を疑っていなかった。ヨセフは神は常に最善をなしてくださると信じていたのだ。

 

ヨセフは決して裕福な人ではなかった。エジプトまでの旅費を持ち合わせてはいなかったはずだ。いや、そうではない。あの東方から来た占星術の学者たちが幼子イエスに贈った宝があった。聖書には書いていないが間違いなくこの宝を売って旅費とエジプトの滞在費に使ったに違いない。

 

ヨセフもマリアもきっとエジプトに逃れるに際して宝を売った際に神を褒め称えたことだろう。そして、幼子イエスこそまことの救い主に違いないと確信を深めたことだろう。私たちもまたヨセフのように神の真実さを知り、神をほめたたえるよう招かれているのだ。

 

神は真実なお方であり、私たちとともにいてくださり、折にかなって知恵を与えてくださる。わたしたちもヨセフのように神の真実を疑わないで、神に知恵を祈り求めていこうではないか。

 

 

 

 

私たちが神をほめたたえる理由 ペトロの手紙1 1章3−5節

ペトロは「神がほめたたえられますように。」と祈っています。

 

そして、ペトロはその理由を過去、未来、現在の順番で三つ書き残しています。

 

私たちが神をほめたたえる理由を見ていきましょう。

 

1 新しいいのちをいただいたから

 

先ず皆さんの過去に目を向けましょう。

 

ペトロはクリスチャンが神をほめたたえる理由は、

新しく生まれ変わったからだと書いています。(3節)

 

これを新生体験と言います。

 

皆さんは新しく生まれ変わって何が変わったでしょう?

 

先ずこの世界を見る目が変わったのではないでしょうか。

 

小坂忠さんが新生体験の感動をこのように歌っています。

〜すべてが美しい〜

「目に映るものすべてが今までとは違う。

 歩き慣れたこのとおりでさえ。

 ビルの谷間を行き交う見知らぬ顔も

 とても親しい人のようだ。

 すべてが美しい、今までとは違う

 すべてが美しい、今までとは違う

 愛を知ってから、イエスに出会ってから

 この心が変わってから」

 

また神様と話すことが出来るようになりました。

 

しかも神様が親しい友、あるいは親子関係のように暖かく、

また頼もしいお方であることが分かったのです。

 

何と幸いなことでしょうか。

 

ある方がいつもわたしにご主人の不平不満を言いに来ました。

 

わたしはイエス様に重荷を降ろしましょうと招きました。

 

その方は長いお祈りをし、祈り終わるととてもすっきりした顔でした。

 

2 朽ちない財産を用意されているから

 

次に皆さんの目を未来に向けましょう。

 

ペトロは神様が皆さんの未来に何を備えておられるかを書き残しました。(4節)

 

それは「朽ちず、汚れず、しぼまない財産」だというのです。

 

皆さんはどれくらい財産を持っているでしょう。

 

また老後の蓄えはどうでしょう。

 

子どもの将来にかかる養育費、学費についてはどうでしょう。

 

わたしたちは人生において少しでも貯蓄を殖やして備えようとします。

 

でもそれが徒労に終わることだってあります。

 

世界で最初にバブルがはじけた事件はオランダでおきました。

 

チューリップが世界的流行となり、品質改良が重ねられ球根

一個がものすごい価値を持つようになりました。

 

ある貴族はお城を球根一個と交換したそうです。

 

ところがそのバブルの三年後、突如価格は暴落します。

 

たくさんの人が被害を被りました。

 

このようにこの世の財産はいとも簡単に朽ちてしまう、汚れてしまう、

しぼんでしまう虚しいものなのです。

 

こんな虚しいものにだけ心を奪われ、振り回される人生でよいでしょうか。

 

イエス様はそれらのことは天の父が養って下さるから心配無用と

教えてくれました。

 

教えるだけでなく実際、奇跡を通して心配無用であることを示しされました。

 

だから、聖書は財産がなくても心配無用、財産がある人はそれを神様の

ご用のために賢く使う事ようにと教えるわけです。

 

アンテオケ宣教会から派遣されている賀川千世美先生という宣教師が証をしています。

 

先生はP国で人々の心を開くためカフェを運営しています。

 

昨年11月頃、朝、突然政府が高額紙幣無効宣言を出しました。

 

仕入れもできず、お店も閑古鳥となってしまいました。

 

高額紙幣は使えませんが、小額紙幣はまだ使えるようです。

 

ところが数日前、誤ってチーズを購入しすぎて小額紙幣は手元にわずかしかありません。

 

その小額紙幣にも有効期限があり、カード払いできる店はありません。

 

そんなときひと家族が見せにやってきました。

 

カード払いはできないと伝えた上で料理を出しました。

 

帰りになんと驚くことに小額紙幣で支払ってくれたのです。

 

入手困難な小額紙幣で。しかもおつりはいらないというのです。

 

これで仕入れができるようになり、カフェを継続出来るようになったのです。

 

イエス様の言われたとおりです。神に信頼するならば何も心配しなくていいのです。

 

神様が養って下さることを人生の折々に実感して賛美しましょう。

この地上を去ったあとに備えられている財産に期待しましょう。

 

これがイエス様に従って生きていく人の歩みなのです。

 

3 どんな時も神に守られているから

 

最後に皆さんの目を現在に向けましょう

 

ペトロが手紙を書き送った先の教会は大きな試練に直面していました。

 

そして、試練の故に悲しみに沈んでいたようです。

 

ところがその彼らに向かって「神がほめたたえられますように」

と呼びかけたのです。なぜでしょう。(5節)

 

神がほめたたえられるようにと呼びかける理由は「神の力により、信仰によって守られているからです。」

 

神様の確実な守りがあるというのです。

 

これまでの人生を振り返るとき、実に私たちの気づかないところにも

神様の守りがあったのです。

 

そしてこれからも神は皆さんの心、身体、家族、教会を守っていてくださいます。

 

だから神様の力を信じて神様をほめたたえようではありませんか。

 

今から43年前、同じ札幌で冬季オリンピックが開催されました。

 

フィギアスケートで3位、「銀盤の妖精」と呼ばれ、世界中がその演技に

感動したスケーターがいました。

 

ジャネット・リンさんです。

 

現在のSPに当たる前半で4位と出遅れます。

 

国の威信をかけてぜったい負けられない後半、彼女はスピンで尻餅をついてしまいます。

 

しかし、彼女はこのとき美しい笑顔で起き上がり、素晴らしい演技を

披露します。

 

結果は1位。総合で3位になりました。

 

長野オリンピックでは親善大使を務める程、日本人に愛されたスケーター

となりました。

 

彼女は2012年に朝日新聞の取材に応じています。

 

――改めて札幌五輪を振り返っていただけますか。

 

「規定演技が4位に終わり、悲しくて選手村の部屋で泣きました。

 

そのうちに神の声が聞こえたような気がして平静になり、心が切り替わった。

 

五輪で勝利するという当初の使命は果たせなくても、代わりにスケートを

通じて神の愛を皆に見てもらうためにベストを尽くすのだ、と」

 

――自由演技では、スピンで転んでしまったのに立ち上がったときは笑顔でした。どんな気持ちだったのですか。

 

「練習ではあそこで転んだことなんて一度もありませんでした。

 

あれは神が仕掛けたストーリー。

 

どうすることもできないならば、私は笑顔であり続けるしかない。

 

『神が私に喜びを与えてくれ、私はその愛を見せようとした』。

それ以外に説明ができません」

 

出場時、彼女は14歳、その2年前にイエス様を信じ洗礼を受けました。

 

「神の力により、信仰によって守られているからです。」

 

神様に信頼し、その信仰を通して注がれていた神の力によって

ジャネットさんは守られていたのですね。

 

わたしも同じです。

 

試練の中にあっても神様の力により、神様に信頼して守られているのです。

 

今日は私たちが神様をほめたたえる理由を聖書から

学びました。それは・・・

 

1 新しいいのちをいただいたからです

 

2 朽ちない財産を用意されているからです

 

3 どんな時も守られているからです。

 

今週も神をほめたたえながら歩んでいこうではありませんか。

 

マタイによる福音書3章1〜12節

悔い改めについて学びたいと思います。

 

ヨハネは人々の心を整えるために活躍した預言者でした。

 

なぜ整える必要があったのでしょうか。2節 天の国=神の国 国=支配

 

「まことの王の支配が訪れる。だから、悔い改めなさい」

 

ヨハネはその王がどんな方かを語っています。

 

自分より偉大な方である。11節

 

聖霊

 聖霊と火で洗礼を授けるとは、救われる人とそうでない人を振り分けることです。

 

信じる人には聖霊を与え神との関係を回復してくださいます。

 

信じない人は終わりの日に火でその人を滅ぼすのです。

 

「そのお方は人々を救いか滅びかを定められる」ヨハネはそう伝えたのです。

12節 麦か殻かに分けるのはこのたとえ

 

「その方は、神としての権威をもって人々を裁くだろう。

 

またこの世界を支配するまことの王であられる。

 

わたしはその方が来られるための道備えをしているのだ。」

 

これを聞いて人々は罪を告白し、洗礼を受けました。4節

 

悔い改めるとは、罪を告白することです。

 

その罪とは心の王座に自分が座していることです。

 

だから悔い改めるとは、心の王座にまことの王を迎え入れる決心をすることです。

 

人々はその印としてヨハネから洗礼を受けました。

 

では悔い改めると何が起こるのでしょうか。

 

ヨハネの元に宗教家たちがやって来ました。7節

 

ヨハネは彼らに「悔い改めにふさわしい実を結べ、そうでないと神の怒りを免れることはできない

」と言いました。8節

 

悔い改めがもたらす実、生活はどんなものなのでしょうか?

 

正しい、良い行いでしょうか。

 

宗教指導者たちは誰よりもそれをしていました。

 

悔い改めの実を結ぶとは御霊の実と呼ばれる品性が現れることです。

ガラテヤ6章

 

宗教指導者たちはその品性を実らせる妨げている何かを持っていました。

 

それは民族的なプライドでした。9節 アブラハムの子孫だから救われている。

 

彼らはそのプライドが高かったので、異邦人を見下していました。

 

その異邦人も心の王座にまことの王を迎えるなら救われます。

「この石ころからでも」

 

まことの王であるイエスはどんな方でしょうか。

 

イエスはご自分を受け入れない人をあのヘロデ王のように徹底的に排除したでしょうか?

 

イエスは悔い改めなければ滅ぼすぞと脅迫はしませんでした。

 

イエスは十字架にかかりわたしたちに罪の赦しをもたらしてくれました。

 

イエスは裁くためではなく、救うために来られた王なのです。

 

そのためにあえて貧しい姿をもってこの地に来てくださいました。

 

良い行い、正しい生活をしたからイエスを王として迎え入れる資格があるのではありません。

 

悔い改めるとは、プライドを捨てて心の王座にまことの王を迎え入れることです。

 

そのために必要なこと、神から要求されている正しい行いはすべてイエスが完成してくれました。

 

ヨハネが授けた洗礼はまことの王を迎え入れる決意の表明でした。

 

私たちが授かる洗礼はそういう決意や努力の意思表明ではありません。

 

イエス・キリストをとおして与えられた恵みの印です。

 

洗礼を受けるとは神の怒りのもとではなく、恵みのもとに生きる新しい生活を始めることです。

 

今朝、もし心の王座にまことの王であるイエス以外のものを置いているなら悔い改めましょう。

 

 

  神を信じなくても楽しい人生を送って来た。どうして悔い改めが必要かという人がいるでしょう。

 

三つの理由を最後に紹介しておきたいとおもいます。

 

ひとつは私たちの心には神を求める願いがあるからです。

 

人間の心には理性では説明のつかない永遠を思う想いがあります。

 

ある人がこう言いました。「人の心には神以外には満たすことのできない空洞がある。」

 

だから人生の虚しさを感じ始めたならそれはとても素晴らしいことです。

 

神を求め始めるきっかけになるからです。

 

 

ふたつめは危機的な状況に備える必要があるからです。

 

いまは自然災害が来たときの備えについてよく語られています。それは時代の要請でもあります。

 

それと同じように人生の危機管理をしっかり考えておく必要があります。

 

確かに神を信じなくても楽しく生きる人はいるでしょう。

 

しかし、注意しなければならないのは人生には必ず思いがけない試練が襲う、悲しみに合うことです。

 

愛する者を亡くす、事故に遭う、病気にかかるなど。

 

それは起こることが当然だということを前提にして生きる必要があります。

 

人間が遭遇する最悪の試練は死です。

 

死後の世界への備えをどうすれば良いのでしょうか。

 

聖書によるとイエス・キリストを信じて父なる神と和解していることです。

 

これが最も大事な備えです。だから神を信じなければいけません。

 

ヨハネは3:10でエルサレムの崩壊を預言しました。危機的な状況が彼らに迫っていました。

 

 

 

みっつめは今を生きる力が必要だから神を求める必要があります。

 

パウロという人は私はしたいと思う良いことができない。むしろしたくない悪を行ってしまう。だから惨めだと言っています。

 

とても正直な告白です。

 

神と愛の関係にある人は、自分の力ではない、超自然的な力を体験してかつてできなかったことが出来るようになります。

 

今を生きる力を神から与えられるからです。

 

イエスは聖霊により洗礼を授けてくださるお方です。

 

その聖霊が品性をもたらし、生きる力と知恵を与えてれるのです。

 

悔い改めの実を結ぶとはそういうことです。

 

ぜひ神を見上げて、イエス・キリストをまことの王として心に迎え入れてください。

 

洗礼がまだの人はぜひ洗礼を受けてください。

 

 イエスから火ではなく、聖霊による洗礼を受けてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

レビ記6章1〜6節

2、5,6節に祭壇の火を燃やし続けなければならないと書いてある。

 

理由は不明。人々にとっては自明のことだった?

 

1  祭壇の火は神の聖さと正しさを示す。

 

全焼のいけにえを焼き尽くす炎は、人間の犯した罪に対する警告だ。

 

焼き尽くす捧げ物の描写は残酷だが、罪に対する神の怒りがそれだけ激しいことを示している。

 

例)マレーシア当局の北朝鮮の声明に対する怒り

 

神はご自分の義を曖昧にすることはなさらないお方なのだ。

 

2  燃え尽きない火が示すこと

 

1)永遠性

神の聖と義は永遠に変わらない。

 

この世では時代により義の基準が変わるが、神の性質は決して変わらない。

 

エレミヤ31:3

 

神の聖さ、正しさ、そして愛も永遠に変わらない。

 

祭司達は灰を取り除くとき権威の装束でなく、亜麻布の装束をまとった。

 

亜麻布の装束は謙遜の象徴。神の聖さの前にへりくだる。

 

2)常に救いの手段が備えられている

常時、罪の苦悩からの救いが用意されている。(人類の諸問題の根本的原因は罪にある)

 

この世では恵みによる救いは中々理解されにくい。しかし、救いの手段は唯一なのだ。

 

約束の地を目指す民は集団の中央に祭壇のある幕屋を設けていた。

 

私たちもまた十字架の救いをいつも覚えておく必要がある。

 

祭壇の火を燃え続けさせねばならない。

 

それはイエス・キリストの十字架を高く掲げ続けることだ。

 

イエス・キリストの他に救いはない。このことを示し続けねばならない。