神は知恵を与えてくださる マタイ3章

イエスの家族はヘロデ王の手から逃れ、エジプトへ下って行く。彼らはヘロデ王が死ぬとイスラエルに戻ってくる。彼らは南の方で暮らすことを望んでいたのだが、その地域はヘロデ王に勝るとも劣らない残忍な王が支配する地域であった。そこで彼らは北の方で暮らし始めることになった。

 

ここで注目したいのがイエスの父ヨセフが夢でお告げを受けて行動を起こしていることである。占星術の学者たちが去った後、またヘロデ王が死んだ頃、そして、イスラエルに戻ったはいいが恐れている時、ヨセフは夢の中で次の行動を示されたのだ。ヨセフは常に賢い選択をし、幼子であった救い主の命は守られたのだが、その背後には神からの知恵があったのだ。

 

今日の箇所で教えられることは、神が私たちにも知恵を与えてくださるということだ。

 

重大な決断をする時、自分の経験や誰かの助言では役に立たないことがある。そのような時、ヨセフのように神に知恵を与えてもらえるとしたら、何とありがたいことだろう。箴言9:10には、『主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることは分別の初め。』とあり、神を畏れることが知恵の始まりであることが教えられている。ヨセフはマタイ1:9で正しい人であったとあります。言い換えると、ヨセフは神を畏れる人であった。これが彼の人生に知恵をもたらしたのだ。

 

知恵とはどんな困難な状況の中でも懸命な判断をする能力のことだ。

 

知恵を求めた人物で有名なのはソロモン王である。彼は父ダビデが打ち立てた王国の後継者として指名された。この頃はまだ政敵があり、国も結束しているとは言い難かった。ソロモンは父ダビデに倣い神を畏れ敬った。そんな彼に神が夢に現れて欲しいものを与えると言われた。ソロモンはこの時、国を治めるために知恵を求めたのだ。列王記上3:6-14.旧約p,531。神はこれを喜び、知恵に加えてすべてのものを与えると約束された。

 

列王記上3:16-22ソロモンの知恵が公けにされる事件が起こった。ふたりの女性がソロモンに相談を持ちかけた。ふたりにはそれぞれ生後間もない子どもがおり、同居していたのだが、就寝中ふたりのうちの一人が誤って子どもを圧死させてしまった。生き残った子どもがどちらの子どもか判別してほしいというのだ。両者ともに「これは自分の子ども」と主張し、判別は難しかった。

 

ソロモンが下した判決は剣で生き残った子どもを真っ二つにして、ふたりの母親に渡せというものだった。ひとりはその通りにして欲しいと願い、もうひとりはそうしないで子どもを相手に渡すことを願った。誰の目にも本当の母親は後者であることが明らかだった。こうしてソロモンはすべてのイスラエルの民にその知恵を示すことになり、優れた王として名声が国中に鳴り響くことになった。

 

神の知恵は例外なく神を畏れる人に約束されている。だからヤコブの手紙1章5節に知恵を求めるよう勧められている。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、誰にでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば与えられます。」

 

ここに誰にでも与えられるとある。ヨセフのように田舎の大工であっても、ソロモンのような王であっても求める人には身分に関係なく知恵は与えられる。

また惜しみなくとある。神の知恵は無尽蔵であり、神には知恵が満ち溢れているのだ。この神に知恵を求めないのは何と勿体無いことか。

さらに咎めることなくとある。どんな仔細なことについても神は知恵を与えてくださるのだ。

 

たとえ

 

ただヤコブは知恵を求めるに際して注意するようにとも言っている。同1章6〜8節「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」

 

知恵を求めるにときに疑ってはいけないのだ。なぜ疑うか。神のなさることが常に最善であると信じられないからだ。ヤコブはこの心の状態を「心が定まらず」と言っている。新改訳ではここを「二心のある人」と訳している。つまり、疑う人の心は神の命令とこの世の常識的にとの間で揺れ動いているということだ。そしてヤコブは「そういう人は生き方全体に安定を欠く人」だとも言っている。

 

イエスの父ヨセフがもしこのような人であったらどうだったか想像してみたい。神が夢でエジプトへ逃れよという。しかし、ベツレヘムからエジプトへの最短距離は、ガザを通って地中海沿いの道を西へ行くコースです。直線距離で410km以上、東京駅から神戸まで至る距離に匹敵。常識的に考えて妻とまだ2歳に満たない子どもを連れて徒歩で長旅をすることは無謀だ。

 

ヨセフは気づいていなかったがこの時、予断を許さない状況だった。おそらく、もし彼がどうしようかと迷っていたならば、ヘロデ王が派遣した兵士たちがベツレヘムに到着し、他の子どもたちとともに幼子イエスも殺害されてしまっていたに違いない。

 

しかし、ヨセフは夢から覚めると、まだ夜中なのに妻を起こし、幼子イエスを連れてエジプトへと下って行ったのだ。2:14  ヨセフはいささかも神を疑っていなかった。ヨセフは神は常に最善をなしてくださると信じていたのだ。

 

ヨセフは決して裕福な人ではなかった。エジプトまでの旅費を持ち合わせてはいなかったはずだ。いや、そうではない。あの東方から来た占星術の学者たちが幼子イエスに贈った宝があった。聖書には書いていないが間違いなくこの宝を売って旅費とエジプトの滞在費に使ったに違いない。

 

ヨセフもマリアもきっとエジプトに逃れるに際して宝を売った際に神を褒め称えたことだろう。そして、幼子イエスこそまことの救い主に違いないと確信を深めたことだろう。私たちもまたヨセフのように神の真実さを知り、神をほめたたえるよう招かれているのだ。

 

神は真実なお方であり、私たちとともにいてくださり、折にかなって知恵を与えてくださる。わたしたちもヨセフのように神の真実を疑わないで、神に知恵を祈り求めていこうではないか。